第7話(#19) ライキリ・プロジェクト


1

 コンクリートに囲まれた、学校の教室と似た広さの空間に、少女は立ち尽くしていた。四方のうち正面に壁は無く、屋外に向けて開け放たれている。奥の壁際には新品のタイヤが積み上げられ、無数に置かれた金属製のラックの上には、黒い油にまみれた機械が整然と並べられている。

少女は、ここを大人たちが「ピット」と呼んでいたことを思い出した。

ピットの使用者である大人たちは、いま少女に見向きもせず、あわただしく駆け回っている。表情はわからない。とにかく忙しく、切羽詰まった、あわただしい空気が伝わってくる。

「どうしたんだろう」

 傍らからあがる声を聞いて、もう一人、自分と同じ年頃の少女がいる事を思い出した。心配そうにあたりを見回す手には、ブルーの帽子が握られている。

 わからない、と答えようとするが声は出ない。口を開いても、息が漏れるだけで言葉にはならない。手に力は入らず、足も動かせず、その場に立ち尽くす他にない。しかし、目と耳は大人たちの動きや声を確かに伝えてくる。少女が、声を出そうともう一度口を開いたとき、一人の大人が足を止めた。

「ごめん、ちょっと大変なことになった。二人とも、ここは危なくなるからさっきいたところ、モーターホームに戻っていなさい」

 一方的にそう告げると、大人は足早に走り去っていく。傍らの少女が慌てて一歩を踏み出す。背中を捕まえようとしたのか、伸ばした手からブルーの帽子が落ちて、コンクリートの床に触れる。

「パパ、待って!」

 転がった帽子を放ったまま、傍らの少女は走りだす。「パパ」にすぐに追いついて、言葉を交わす様子が見える。少女は、足元に落ちた帽子を拾い上げながら独りごちた。

「パパ……。……お父さん」

 今度の声はなぜか、すんなりと出た。

 今いる場所、ピットの先に見えるのは、アスファルトの路面と、壁のようにそびえたつ観客席。そう、ここはサーキットという場所。国内有数の規模を誇る「鈴鹿サーキット」だと、その人は教えてくれた。

「お父さん」

 感覚がはっきりするにつれ、何が起こっているのかも少女は思い出していく。「鈴鹿サーキット」で行われている、新しいクルマのテスト。それを運転するのは、お父さん。塗装されず、真っ黒な素材をむき出しにしたクルマはさっきまでそこにあった。しかし今は、止まるべき位置を示す、白い線が引いてあるだけ。

「……お父さん……」

 その黒いクルマに乗り込んで、お父さんはサーキットに向かっていった。窓ガラスの奥、ヘルメットの中に見えた目は、いつもと違って、どこか遠くの方を見ているようだった。その視界に自分は入っていない。もっと、はるか遠くを見ていたような気がする。

 ピットロードを、赤いランプをともしたクルマが走り去っていく。その回転するランプの意味を考えるまでもなく、少女は叫んだ。

「お父さん!」

 瀬名アイリーンは叫びながら、ベッドで身体を起こした。息は荒く、肩が上下に揺れている。ホテルに備え付けられた寝間着は、全身にかいた寝汗のせいで、わずらわしくまとわりついてくる。

「……夢……」

 ふわっとした真っ白い布団が、自宅から遠い場所であることをアイリーンに伝える。白い天井、白い壁。前年度の「ミニ四駆選手権」上位チームのメンバーには個人部屋が用意されている。相部屋だったら、チームメイトにこの姿をさらしているところだった。

「しばらく見てなかったのに」

 ため息をついて、アイリーンはベッドから降りた。窓辺に近寄ってカーテンを開けると、眼下には知らない街並みが広がっている。日曜日の繁華街、朝の人通りは少ないが、信号待ちの車列が絶えることはなかった。その様子を一瞥して、アイリーンはカーテンを閉めた。そしてシャワールームに向かう。

「あの娘と、会ったせいか……」  

 寝間着を脱ぎ捨て、すこし冷たいシャワーを浴びる。細い水の線が、熱を帯びた体に心地よい。アイリーンは目を閉じて、刺激に身をゆだねた。夢の中の肌触りを、早く忘れられるように、と。



2

「ミニ四駆選手権」は、予選ラウンド3戦を終えて、決勝に進出する全十チームが決定した。圧勝したチーム、接戦に涙をのんだチーム、それぞれの想いを含んだまま、開催地のオオサカは、日曜日の朝を迎えた。

 「すーぱーあゆみんミニ四チーム」の五人は、宿泊先のホテルを出て、近くのファストフード店に入った。ターミナル駅の近くということもあり、客席には老若男女、様々な人が座り、短い滞在時間で次々に入れ替わっていく。奏はその様子を、眉を寄せながら見つめていた。傍からは、まるでオオサカの人間を逐一、詳細に観察しているようにしか見えない。

「会長、どうされました?」

 見かねてルナが声をかける。

「何でもない」

 目線を周囲に向けたまま、奏は手に持ったマフィンをかじる。

「そういえば、会長のご出身ってオオサカって以前にお聞きしましたけど……」

 ルナの言葉に、奏はビクッと全身を震わせた。

「あれっ、そうだっけ」
「へー、そうなんですか!」
「意外」

 あゆみとたくみ、たまおが声をあげるたびに、奏の肩が小刻みに揺れる。

「そ……そうね……」
「会長……?」

 うっすらゆがんだ口元に、ルナは尋常ならざるものを感じた。

「早く、帰りましょう……。もう、レースは終わったんだし、オオサカなんてうるさい街に、用はないんだから」
「う、うん」

 あゆみも、普段とは違う奏の様子に圧倒されている。生まれた場所なのに、思い出したくないものや出来事があるのだろうか。考えている間にも、奏はそそくさと席を立つ準備を進めている。あゆみは首をかしげた。

 ホテルに戻ってからも様子は変わらず、奏にせかされるまま慌ただしく荷造りを済ませ、あゆみ達はそそくさと部屋を出た。

「会長、せっかくですから観光は」

 たまおが尋ねるが、奏は「しない」と一言返すのみ。

「えー、有名な《ツーテンカク》って行ってみたいんだけど」

 たくみの言葉にも「来たければ、また今度旅行で来ればいいわ」とつれない。

 エレベーターでロビーに降りると、《ミニ四駆選手権》に出場した選手が数多く見える。チームごとに固まって、別れを惜しむもの、再会を誓うもの、それぞれの表情があふれている。

 そのセンチメンタルな空気に触れたせいか、奏の足もわずかに緩まる。

「あっ!」

 あゆみが一人かけて行く。奏は呼び止めようとするが、向かった先にいる少女を見て思いとどまった。

「瀬名さん!」

 場内スクリーンで何度もみたブルーの帽子を、アイリーンは変わらずにかぶっている。あゆみの声に気付いて振り返った時、二人の間に人影が飛び出した。

「ほっほーう、君が涼川あゆみ君かね?」

 セルフレームの眼鏡の奥で、一癖ありそうな瞳が光る。

「あなたは……」

 あゆみがたじろぐと、もう一つの人影が視界をふさぐ。

「Eブロック二位、すーぱーあゆみんミニ四チーム。キャプテン、涼川あゆみ。瀬名がなぜ気にしているのかはわからないが、なるほど、勢いはありそうだな」

 ひんやりとした感触の視線に、あゆみは一歩しりぞく。

「ほら、教授もマンちゃんも、涼川さんをこわがらせて遊ぶなよ」
「ん? 誰が怖がらせている?」
「もう、何度言っても変わらないけど、外での呼び方を考えてほしいのよ、ホントに」

 三人の軽妙な、言葉のパスワークを目の前にして、あゆみは言葉を失った。アイリーンにばかり注意が向いていたが、二人の姿も会場のスクリーン、あるいは運営側から配布された資料を通して見たことがある。

「あの!」

 あゆみは一呼吸おいてから言った。

「《フロスト・ゼミナール》の氷室さんと、《イル・レオーネ》の万代さんですよね? 去年、大会で表彰台に乗った」

 言い終わる前に、尚子はあゆみの肩を抱く。

「すごいね! ウチらのこと知ってるんだ? えらい! 君はえらい!」
「まあ、パンフレットやらで、我々の顔や体が勝手にさらされてるからな。不本意だが仕方がない」

 蘭は頭のうしろをかく。

「それで、涼川さん」

 アイリーンが、あゆみを見据えて言う。

「あなたも、決勝に進んだのよね」
「は……はい」
「じゃあ、もうここからは、優勝を狙う対等なライバルよ」
「ライバル……」
「だから、レースが終わるまでは、友達みたいにふるまうの、やめておこうよ」「うっ……」

 突き放す言葉に、あゆみは反応できない。

「涼川さーん、そろそろ行きましょう」

 背中に聞こえる奏の声が、あゆみにとってはありがたかった。

「呼んでるわよ。それじゃ」

 アイリーンが背を向ける。その姿を見て、あゆみは思い出した。
 チッカ・デル・ソルの言葉。
 ナゴヤのバックヤードでの、アイリーンの言葉。

「ねえ、瀬名さん! 瀬名さん、あたしのパパの、何かを知ってるの?」

 歩を進めようとしてた瀬名が、立ち止まる。

「あたしたち、会うの初めてじゃないよね? ずっと前に、どこかで……あたしたち、会ってない?」

 あゆみの言葉を振り切るように、アイリーンはその場を立ち去った。蘭と尚子は、あゆみに目配せしてアイリーンを追う。

「瀬名さん……」

 あゆみは肩を落とした。ただ、自分の直感が間違っていないことは、はっきりと確信した。



3

 オオサカ駅からシン・オオサカ駅へは在来線で一駅。すーぱーあゆみんミニ四チームの面々は、理由もわからぬまま、いそいそと列車に乗り込んだ。あゆみは遠くを見つめて何も語ろうとせず、奏は相変わらず、警戒するようにあたりを見渡している。その様子に、ルナ、たまお、たくみの三人は首をかしげるしかなかった。

「あっ……!」

 シン・オオサカ駅に降り立ち、新幹線の改札を目の前にして奏が声を上げた。

「会長、なんですか?」

 たくみが、落ち着かなさへの不信感を、隠そうともせずに言う。

「忘れ物、でもしたとか」

 たまおは淡々と告げる。

「……たぶん」

「何をお忘れに? もしかして……マシン? まさかそんなことはありませんよね?」

 ルナは、苦笑しながら恐る恐る尋ねた。

「……たぶん」
「ええっ!」

 やや気の抜けていたあゆみも、声をあげて驚く。

「どーすんですか? 新幹線のチケット、《財団》から渡されたお金で、指定席券も買っちゃいましたよ?」
「ごめん、私だけホテルに戻るから、みんなは先に帰ってて」
「そんな……」

 全員が押し黙る。天井から、指定席をとった新幹線の発車が近いことを告げるアナウンスが聞こえてくる。

「わかった」

 あゆみが言った。

「会長、あたしが一緒に行きます。ルナちゃんと早乙女ずは、予定通り指定席で帰ってよ」
「でも……」

 たくみが眉を寄せる。構わず、あゆみは財布から切符の束を取り出し、二枚だけ抜き取ると、残りをまとめてたくみに手渡した。

「たくみ、頼むよ」
「そんな、困るよ」
「大丈夫。さ、会長、急ぎましょう」
「え、いいの?」
「大丈夫です、ほら」
「あっ……あゆみちゃん! 会長!」

 ルナが呼び止めようとするよりも早く、二人の姿は、今きたばかりの在来線ホームに消えていく。

「二人とも、どうしたのかしら……」
「あゆみは多分、さっき瀬名さんや上位ランカーと話をしていたから、それが原因でしょう。何の話かはわからないですけど、挑発されて神経質になってるんじゃ」

 ルナの問いに答えながらも、たまおは新幹線の改札へ向けて進み始める。出遅れたたくみが、小走りに追いかける。

「じゃあ、会長は何なんだろ? 朝からずっとキョロキョロしてて、何が原因だかさっぱりわかんないよ」  

 追いついたたくみが、乗車券と特急券を二人に配る。余りが数枚あったが、領収証という文字が見えたので構わず、バッグのポケットに突っ込んだ。


4

「ごめん、涼川さん!」

 ホテルのロビーで、奏は深々と頭を下げた。その手にはチェックボックス……スーツケースの一番奥で、昨日着た衣類に埋もれていた……が握られている。もちろん、中にはパープルのタイヤを履いたエアロアバンテが収められている。

 到着して念のため、とスーツケースを開いた瞬間だった。フロントで問い合わせるまでもなかった。カウンターの奥にある時計は、ちょうどトーキョー行きの新幹線「あいな6号」の発車時刻を示している。

「ちょっと私、どうかしてるわ」
「いや、それは今朝から、ずっとそうでしたけど」
「うーん、こんなはずじゃ……」
「まあ、最悪の最悪は回避できたんだから、いいじゃないですか。あとは二人で帰りましょうよ」

 あゆみは、財布におさめた切符を取り出す。指定席券はどうせ使えなくなるのだからと、たくみに渡す直前、乗車券だけを二枚、抜き取ったのだ。あゆみは、切符の券面に目を落とした。

「ぐぇ?」

 奇声と共に、その手が止まった。

ロビーの床に広げてしまった荷物を片づけていた奏が、異変に気付く。

「涼川さん、何?」
「……やっちまいました……」

 その時、奏のスマートフォンが振動を始める。画面には、「早乙女たくみ」の文字がある。

「もしもし?」
「あの……あゆみ、そこにいます?」
「いるけど……どうしたの? あ、マシンは見つかったから安心して」
「あ、そうですか」
「そうですか、っと私たちの命よりも大切なマシンよ?」
「そうですけど……いや、それより、ちょっと、あゆみの持ってる切符を見てほしいんですけど」
「切符? 今ちょうど涼川さんから受け取るところだけど」

 妙に落ち着いたたくみの声、完全に固まっているあゆみの姿。奏は不振に思いながら、切符を見た。

「えーと、二枚あるわよ」
「なんて書いてあります?」
「何なの? 指定席券って書いてある」
「もう一枚は?」
「え? もう一枚も同じよ」
「ああ……やっぱり……」

 電波越しでも、ため息の深さがはっきりとわかる。

「どういうこと?」
「あの、会長、こっちには、乗車券が五枚あるんですよ。つまり」
「えーっ? 乗車券がなくちゃ、私たち新幹線に乗れないじゃない?」
「そういう事なんですよ……」
「涼川さん……」

 どうしよう、と声をかけようとした瞬間、あゆみは膝から崩れ落ちた。散らばった荷物と、放心状態のあゆみ。奏は努めて冷静になろうと、胸に手を当てた。朝から周囲に向けて放っていた注意が、しばし緩まる。

「わかった、たくみちゃん。こっちは何とかするから、あなたたちは、安心して帰って」
「いや、安心って……どうするんですか?」
「大丈夫、また、後で、連絡するわ」
「わかりました……。こっちでできる事があればやりますんで」
「ありがとう、それじゃ」

 奏はひとまず、スマートフォンをしまう。そして、荷物を一つずつ、スーツケースに戻していく。

(……どうする? ひとまず立て替えて、後で《財団》に請求する? いや……そもそも二人分の切符代なんて払えない……。普通の電車でゆっくり行く? 駄目よ、それでも払いきれないかも知れないし、明日は月曜日、授業があるんだから今日中に絶対帰らないと……。うーん、どうしよう……誰か助けてくれる人は……)

 その時、奏の視界に一つの人影が入ってきた。大柄な男性。モダンなホテルに不釣り合いな和装。年の頃は還暦どころか古希をも過ぎているようだが、姿勢や歩き方には衰えは現れていない。

「すみません」

 低音の、迫力ある声にフロント係が慌てて飛んでくる。

「このホテルに、恩田奏、という者が宿泊しているはずなのですが」

 しまった、と思うが早いか、奏は男性のもとへダッシュした。

うかつだった。朝からこの瞬間を警戒していたはずなのに、忘れ物をして……正確にはしていないが、いや、そんなことはどうでもいいと奏はかぶりを振る……とにかく自分で墓穴を掘ってしまった。胸の内で舌打ちしながら、男性の肩をたたく。

「……おじい様」
「おう!」

 ロビー中に響く声で、おじい様、と呼ばれた男性は返事をした。まだ多く残るミニ四駆選手権の参加者、一般の宿泊客、そしてホテルの従業員、すべての視線が男性と奏に集まる。

「おじい様? 会長の?」

 硬直していたあゆみも、余りに意外な出来事に生気を取り戻す。

「探したぞ! 奏! どうしてオオサカに来てるというのに連絡一つよこさない!」
「おじい様、声が大きいです……もう、恥ずかしい……」
「はははは、許せ! わしの喉にはマフラーが付いてないからな! 直噴エンジンの直管仕様じゃ! がははは!」
「もう……」

 奏が顔を赤くしてうつむく。

「へぇ、会長、あんな顔するんだ」

 あゆみは、奏のスーツケースと自分の荷物を引きずりながら、二人のもとへ歩いた。

「あの、こんにちは、初めまして」
「おや、はじめまして。奏、こちらの娘さんは」
「あ、荷物ごめんね。……この娘は、私のミニ四駆チームのキャプテン」
「涼川あゆみです」
「おお! 君か!」

 また一際おおきな声がロビーに響くが、二回目ともなると周囲の反応は冷めたものだった。

「いやあ、涼川の血はゆずれんな! おやじさんそっくりだ!」
「おやじ……ってパパを……涼川みのるをご存じなんですか?」
「存じてるも何も、かつて上司・部下の関係だったからな、あの男とは」
「ぇえっ?」
「まあ、立ち話もなんだ、せっかくだから、わしのガレージで茶でも飲んでかんか」
「ガレージ? 本当ですか?」
「ちょ、ちょっと待って、おじい様、涼川さん。今、私たち、ちょっと……いや、ちょっとじゃなく相当、困ってるの」
「はっ!」

 奏の言葉に、あゆみは今おかれている状況を思い出した。忘れかけていたが、手に握られた指定席券は、もう一度見返しても乗車券に化けてはいなかった。現実に引き戻されて愕然とする間に、奏が祖父に事情を話す。

「……おじい様に頼りたくなかったんだけど……」

 奏が、あゆみたちの前では絶対に見せない、はにかんだような、恥ずかしがるような表情を浮かべる。

「そういうことなら、わしに任せろ」
「本当?」
「奏のおじい様、切符代、立て替えてもらえるのなら、本当に助かります」

 二人の目に自然と涙が浮かぶ。

「あゆみちゃん、ちとその呼び方はムズムズするな」
「あっ、ごめんなさい」
「わしにも名前がある」

 もったいつけて、一つ咳払いする。

「わしこそ、株式会社《無我》創業者にして取締役会長、恩田光一郎だ!」
「えっ……株式会社《無我》?」

 あゆみは、その名を聞いて反射的に一歩後ずさった。

「おじい様、そんな、父さんの会社の名前を大きい声で言わないでよ、恥ずかしい」
「ん? 恥ずかしいとはなんだ。譲ったとは言え、わしが立ち上げた会社じゃ。それにもう何年もしないうちにお前の代になるんじゃろ。堂々とせんか」
「へ? 《無我》が、会長の、お父様の……?」

 あゆみは目を丸くする。

「まあ、この辺の話は道中でしよう。二人ともヨコハマまで送ってってやる。それ用のクルマをとってくるから、しばらくここで待ってなさい」

 そう言って、光一郎は正面玄関から小走りに出て行った。

「ヨコハマまで、クルマで、送る?」

 あゆみが口を開ける隣で、奏は頭を抱えた。


5

 株式会社《無我》。

 ヤムラ製のクルマの性能を最大限に引き出す、チューンナップパーツを専門に扱うメーカーである。そして国内を中心に、ヤムラ車を使ったレース活動を行う《チーム無我》の運営主体でもある。
 恩田光一郎はヤムラのレース活動を取り仕切る立場に長年ついていたが、本社との意見相違から独立。一定の距離感を保ちつつも、ヤムラのレース活動には不可欠なパーツメーカーという存在感を数年でを確立した。
 ヤムラがグランプリレース活動を休止していた時期には《無我・ヤムラ》のブランドでエンジンのメンテナンスを継続。複数の勝利をあげてチャンピオン争いに絡むなど、世界の舞台で気を吐いた。
 現在では国内の《ハイパーGT選手権シリーズ》をメインとしつつ、公道向けにもハイスペックなオプションパーツを世に送り続ける、国内有数のチューニング・ガレージである。

「……という会社なのよ《無我》は? なんで、次期社長がご存じない?」

 ロビーのソファに腰掛けながら、あゆみは一方的にまくし立てた。

「知らないわよ、そもそも私は会社を継ぐつもりなんてないんだから」
「うーん……。そっか、会長が朝から落ち着きなかったのは、おじい様に見つからないかって心配してたからですか」
「えっ? 私、別に落ち着きなくなくなんてしてないでしょ?」

 奏は、自分で証明するかのように両手をぶんぶん振って否定する。あゆみは、大きくうなずいた。

「うん、わかった、会長。朝からずっと、冷静で、落ち着いてました」
「ほら、またそうやってからかう。それよりもこんなことになったのは涼川さんのせいだからね。きちんと切符を確かめていれば……」

 奏の言葉をさえぎって、爆音としか表現しようのない排気音が外から響いてきた。あゆみがソファから立ち上がり、外を見る。

「すっげー! あれ、マケラレーンZ1じゃん! 動ける本物って、この国にあったの?」

 あゆみは満面の笑顔を浮かべながらホテルを飛び出していく。置きっぱなしのあゆみの荷物を自分のスーツケースにのせて、奏はゆるゆると後を追った。

「よう! 待たせたな! 3人乗れるクルマってこれくらいしかなくてな!
「すっげー! すっげー! マケラレーン! Z1!」

 ツナギに着替えた光一郎には目もくれず、歩みはガンメタリックのクルマをなめるように見て回った。
 低く構えたボンネット。左右に跳ね上がったドア。ミッドシップに搭載された十二気筒エンジンが、リヤウインドウの中で誇らしげに震えている。トランクは後輪前方のパネルの中。特異なレイアウトのクルマに、通りがかる人の視線が集まる。

「おじい様、もう、早く行きましょう」
「ん、そうだな。新幹線に追いつくのは無理じゃが、できるだけやってみる」
「うぉー! すげー!」

 車体の中央に配置されたシートに、光一郎が座る。その両脇に、あゆみと奏が収まった。バケットシートは最低限のスペースしか確保されていなかったが、体全体を無駄なく包み込む。人間工学にもとづきデザインされた座面には、長距離のドライブでも安心してクルマに体を預けられる。奏は、朝から張っていた気持ちの糸が急激に緩むのを感じていた。

 羽のように展開したドアが、電動で下りてロックされるのを確認すると、光一郎はゆっくりとマケラレーンZ1を始動させた。
  街中をしばらく走ってからハンシン高速へ。リリースから三〇年を経たスーパーカーは、行き届いたメンテナンスによって極めてスムーズに進んでいく。メイシン高速へ入り、早くも京都を通過。光一郎のドライビングも、クルマをいたわるように、クルマの流れとマシンの調子を崩さぬように、丁寧な動きに終始していた。すっかり気が抜けたのか、寝息を立て始めた奏と対照的に、あゆみは、歴史的なマシンの動きに興奮しつづけていた。


6

「そういえば、おじい様」
「なんじゃ、もったいつけて。ジジイでええわい」
「ん……それじゃ、じっちゃん。ヤムラで、あたしのパパと、一緒にはたらいてたんですか?」
「まあな。直接の上司部下だったのは最後の何年かだけだかな。それでもよく覚えておる。」
「そうなんですね……」

この数か月で耳にした、父親についての言葉があゆみの脳裏によみがえる。

「あの、知ってたら教えてください。パパが関わっていた、ヤムラのハイパーカーのこと。なにか問題があって、発売中止になったっていうクルマのこと」
「なんじゃ、そんなマスコミの作った都市伝説を信じておるのか? もう少し、本当とそうでないことを知った方がいいわい」

光一郎はステアリングを握り、正面を見たまま言った。あゆみはこぶしを握り締めて、言葉をつづけた。

「チッカ・デル・ソル、いえ、セルジナ公国の第二皇女の方に、ナゴヤで偶然会いました。その方から、さっきの話を聞いたんです。ネットとか雑誌の情報じゃありません」

 光一郎は黙ったまま、アクセルペダルに足を載せている。

「それに、瀬名さんも、私のパパの事を知っているみたいで、知らないのはあたしだけみたいで、誰に聞いたらいいのかわからなくて……」
「瀬名! 瀬名と言ったか!」

 タコメーターが瞬間、ぴくりと揺れる。加速の衝撃で、奏が妙な声を上げるが、体の向きを変えて、また寝てしまう。

「はい。ミニ四駆選手権、ディフェンディングチャンピオンの名前です。瀬名さん……瀬名、アイリーン」
「アイリーン……。涼川の娘と、瀬名の娘がミニ四駆で……。そうか……運命は残酷だな……。」
「やっぱり、そうなんですね。ヤムラの、ハイパーカー、パパがかかわったマシンは、存在するんですね」

 あゆみは、光一郎を見据えた。背後から伝わってくる排気音と、ノーズが風を切る音が、しばらくの間キャビンを支配した。

「……ああ、そうだ。このZ1も、もともとは、あのマシンの参考にするためにコレクターから譲ってもらったものだ」
「聞かせてもらいたいです。パパ……、いえ、涼川みのるが携わった、ハイパーカーのこと」

 しばらく間が空いて、光一郎は口を開いた。

「あれからもう、七年になるか。世界的な不況のあおりでグランプリから撤退したヤムラは、自分たちの存在意義が何なのかを考えた。長く、不毛な議論が続いたが、やはりレースで戦うことが、ヤムラという会社が存在する理由だという結論になった。
 その第一段階として、《世界のレースで通用する、クルマをつくること》という目標を設定したんじゃ。当時考えうる最高のメカニズムを、最高のスタイリングに詰め込む。そして、グランプリカーに匹敵するラップタイムをサーキットでたたき出す。今考えると、夢物語でしかなかったんじゃがな」
「いえ……わかります。クルマって……そういうものですから」

 あゆみは、膝の上で合わせた手のひらをぎゅっと握り締めた。

「ワシはすでにヤムラを退職、《無我》の国内レース活動で手いっぱいじゃった。だが、エアロパーツの監修をお願いしたいとヤムラ本社から人が来てな。、毎日朝晩やってくるわ、余りにも熱く語るわ、動きが大きいわで、まあ根負けしたわい」
「それが……ひょっとして、あたしのパパ、ですか」
「そうじゃな。涼川みのる。思い出してみれば、何か突出した技術や資格があるわけじゃあない。何かの分野のスペシャリストというのとも違う。だがセンスというか、クルマ全体を見渡して、何が足りないのかを見極めるチカラは、他の若い連中に比べて段違いじゃった。
 わしは涼川に導かれるまま、ハイパーカー計画にアドバイザーとして加わった。その時、すでにクルマには計画のコードネームを兼ねた、ある名前がついていたんじゃ」
「名前、ですか?」
「そう。グランプリカーや外国のハイパーカーをこの世で一番早いもの、光……その力を象徴する《雷》に見立て、それらを一刀両断する鋭さを持ったクルマという期待を込めて、わしらは《ライキリ》と呼んでいた」
「雷を、切る……《ライキリ》」

 ふいに、エアロサンダーショットの姿があゆみの脳裏に浮かんだ。その前に立ちはだかる、漆黒のGTカー。見せつけるかのように光るテールライトが、コーナーを抜けるたびに遠ざかっていく。

「ミニ四駆で、その名前のマシンがあります」
「知っとるよ。あれが、ヤムラが封印したハイパーカーの姿そのものじゃからな。デザインとクルマの名前を売って、少しでも穴埋めをしようとした結果よ」「えっ……」

 握った手が思わず離れる。父親がかかわったとされるハイパーカーと、いま自分が真っただ中にあるミニ四駆が、いきなりつながった。あゆみは言葉を失った。

「プロジェクトリーダーに就いた涼川が《ライキリ》の目標として掲げたのは、鈴鹿サーキットをグランプリカーの一五〇パーセント以下のラップで走行すること。
 それを達成するために、ワシらは議論と試作、走行テストを繰り返した。結果として《ライキリ》は確かに最高のハイパーカーに仕上がった。だがその性能は、人間に操れる限界ギリギリ、あるいは、わずかに超えるかも知れないところにまで至ったんじゃ」
「人間の限界を……超える……」
「その限界を超えずに、ラップレコードを更新する。そのために、ヤムラでも指折りのテストドライバーを選んだ。レーシングドライバーとしての活動は色々あってうまくいかなかったが、職人気質の男がひとりおった。その男こそ、瀬名、トージロー」
「せ、瀬名⁉」
「そう。アイリーンちゃんの父親じゃ」